poohrunningの「改訂版:明日はちゃんとします。」

いやはや…いつまで続くことやら…。

短編小説 「珈琲専門店 鐘の鳴る丘」

実家のある最寄駅からほど近い、見覚えのある小さな交差点から少し離れたところ、以前在った場所から大きな月極駐車場を挟んだ反対側の、新たに建てられた小さなマンションの1階に「珈琲専門店 鐘の鳴る丘」はひっそりと開いていた。

 

移転して真新しくなっているものの、木を基調とした山小屋風の佇まいはかつての面影を残したままである。
店の前、無造作に置かれた珈琲樽に古いスケートボードが2台ぶら下げられているのも、レトロなキーコーヒーの立看板もが25年以上前と変わらない。

 

 

框扉をそっと手前に引いて開けると、あの頃と同じように外へももれていた温かみのある白熱灯の灯りが視界いっぱいに拡がってきて、ぼくはまず安堵した。
一歩中に足を踏み入れて店の中を見回すと、左手には磨き上げられて天井のライトの光が鈍く反射しているカウンターが奥まで続く。
右手には壁一面に山小屋風の羽目板が貼られ、その下には奥まで続いてる造り付けのベンチシートに沿ってテーブル席が5卓ほど置かれていた。
新築されただけあって全体的に新しくなってはいるが、殆ど変わらない雰囲気にホッとした。
以前と違うのは、店の床に段差がつけられてカウンターの高さが低くなっているのと、幾つかのテーブル席に腰ぐらいまでの低い格子の間仕切りが据え付けられているのと、テーブル席のテーブルがあの頃流行っていたゲーム機でなくなっている程度である。

 


店の中は5割程の席が埋まり、お客達で賑わっている。
いちばん窓際のテーブル席には見かけたことのない女性と小さな男の子が並んで座っていた。
親子なのだろう、とても仲睦まじく見える。
あとの客はみんな知った顔ばかりである。
ぼくが中に入っていくと(ドアを開けたときに、やはり以前にもドアにつけられていたカウベルの音がカランコロンと鳴った)みんながぼくの方を見た。
彼ら(彼女ら)はぼくの顔をみとめると、口々に…それぞれ昔のままの口調で…声を掛けてきてくれた。
みんなに久し振りとか元気だかとかひと通り挨拶を交わしながら店の真ん中辺りまで歩いて行き、カウンターの空いている席に上着を脱いで座った。

 


顔を上げて、カウンターに並べられたコーヒーサイフォンの湯気の向こうでコーヒーを入れているマスターに、ご無沙汰してますと声を掛けるとマスターも昔と少しも変わらない口調で、いらっしゃい元気そうだねと言って、やはり少しも変わらない真っ黒に日焼けした顔をほころばせて微笑んだ。

 

 

最近どこで何をしていたのかと訊ねながら、町子ちゃんが水とおしぼりと硝子の灰皿を出してぼくの前に置いてくれた。
ぼくは冗談交じりの返事を返しながら煙草を出して火をつけた。
煙草を吸いながらもう一度店内を見回すと、変わったのは店の場所と一部の内装くらいなもので、天井のスピーカーから流れてくるポップミュージックから、みんなの話し声や壁に埋め込まれたエアコンの低く唸りながら吹き出す温かい風まで、この店の空気感が昔と殆ど何も変わらないまんまでいてくれてることを改めて感じとって、少し嬉しくなった。
町子ちゃんにいつもの甘いアイスコーヒーとあさりトースト(町子ちゃんの作るあさりトーストは格別に美味いのだ)をお願いしてから、昔していたようにカウンター席から後ろを向いて、店に来ているみんなと、現在は誰がどこで何をしているかとか、誰某とこの間ばったり会ったとか、そんなとりとめのない話をきいたり、ぼくの近況なんかをとりとめなく話したりした。

 


ひとしきりみんなと話してからカウンターに向き直ると、マスターが煙草を吸いながら切り出した。


ちゃんと分かっているんだよね?
うん、分かっているけどね…。
ならいいんだけど、きっとその内に今のそんな気持ちだってすっかり忘れてるようになれるから、やめておいた方がいいと思うよ。
…うん。


ぼくは釈然としないながらもそう答えざるを得なかった。


いつだってそうだったのだ。
ぼくがつんのめりそうになっているとき、マスターは言葉少なに、優しくそして毅然として、ぼくをたしなめるのだ。
そしてそれはぼくにとって、一度たりとも後悔するような結果に至った事などない筈だった。
でも…果たして今回もそうなのだろうか。


今日はそのためにわざわざ此処まで来たんでしょ?
そうなんだけど…どっちかっていうと町子ちゃんのあさりトーストが食べたくなったんだ 笑。
なるほど、そっか 笑。


それにしてもさ、こんなに近くにあるとは思わなかったよ。
近くにある方が分かりやすいでしょ。
うん。
でも、これでも結構彼方此方探したんだぜ。
笑 みんなそう言うよ。

 


それからほどなくして町子ちゃんが、またそんな下らないこと考えるのなんてやめなさいね…と笑いながらぼくの前にアイスコーヒーとあさりトーストを置いてくれた。
厚く切ったトーストの上に、缶詰の味付けあさり煮と微塵切りにしたキュウリを乗せて薄味のマヨネーズが軽くかけられたこの店のあさりトースト。
簡単なレシピだからこの店に通う常連客は大体皆んな家で真似して作ってみるのだが、誰一人美味くできないのだ。
少なくとも、誰某が美味くできたようだという話は一度もきいたことがない。


そんなあさりトーストの皿がぼくの前に置かれるのを待っていたかのように、店の奥にあるピンク電話が鳴った。
マスターが苦笑いしながら視線でぼくに電話に出るように促す。


分かってるって。


ぼくは深いため息をついてから、やり切れないままにカウンター席を立って電話まで歩いて行った。
ぼくは見慣れた10円玉しか使えないダイヤル式でえらく旧式のピンクの公衆電話をしばらく眺めていたが、やがて諦めて受話器をとって耳にあてた。


もしもし…。


もしもし、もしもし…。


ぼくは大きく息を吸いこみ、受話器をなあてた耳に聞き耳をたてながら店の中を見渡した。


もしもし、もしもし…。


みんなの顔と騒めく声、柔らかい白熱灯の灯りと肌にあたる温かいエアコンの風、かつて嗅ぎ慣れた珈琲の匂い。


もしもし、もしもし…。


ぼくは受話器を耳にあてたまま、この刹那に感じる五感の全てを頭に焼き付けようとしていた。


もしもし、もしもし…。


窓際のテーブル席の男の子の飲むクリームソーダのグリーンとアイスクリーム上に乗ったチェリーの赤が目に鮮やかに写った。
マスターが煙草をくわえたままこっちを見て頷いた気がした。


もしもし、また此処に戻って来れるかな?
うん、君が本当に困ったときはまた戻って来れるよきっと。

 


もしもし、もしもし…。
ひとりの部屋のベッドの中で言い続けている自分の声で目が覚めた。

 


窓からは明けかかった空の明るみがうっすらと部屋に入り込んできていた。
もうじき朝になる頃なのだろう。


ゆっくりと身を起こしてキッチンに行き、コーヒーを淹れるために水を入れたヤカンを火にかけた。


湯が沸くまでの間、すっかり片付けられている部屋に戻って、サイドテーブルの上に置いておいた封筒を手にとり、そのまましばらく考えていたが、それを破いてゴミ箱に捨てた。

 


そういえばベッドから抜け出すときに微かに珈琲の匂いがかした気がする。
あの店の壁に下げられた黒板には「本日のストレートコーヒー マンデリン ¥300」と書かれていたのを思い出した。